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流山と新選組

新選組と流山

末の一時期、一世を風靡した新選組は、慶応4年(1868)正月鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸へ戻りました。
2月16日、西郷隆盛を参謀長とする官軍が征軍のため京都を出発。近藤勇らは、これを甲府で迎え撃つため甲陽鎮撫隊を結成し、3月1日江戸を出発しました。ところが、官軍は3月4日に甲府入りし、6日にはその先発隊と近藤勇らは甲州勝沼で衝突
することとなりました。
軍力ははるかに勝る官軍にとって近藤軍はすでに敵ではありませんでした。

近藤・土方らは1日で再び負走の旅を続けます。
地元の言い伝えでは、その新選組残党が流山入りしたのは3月20日頃といい、近藤は大久保大和、土方は内藤隼人と名乗り、20数名であったといわれています。
なぜ、流山を選んだかは不明ですが、当時の流山は江戸川の水運によって大いに栄えており、幕府や水戸浪士が付近にいたこともあって、兵力増強の上でも適地であったと考えられます。
また、近藤勇が本陣に選んだのは、酒造家長岡屋で、日増しに集まる兵士のために諸家に分宿したそうです。
後に、長岡屋は志摩屋を経て現在は㈱秋元となっています。

一方、官軍の東山道隊は、板橋にあり、参謀は香川啓三でした。4月1日板橋を出発して粕壁(春日部)に宿陣しましたが、流山に賊徒が集まっているとの情報を同隊は聴取しました。

そして4月3日、香川の指揮する一隊が「羽口の渡」を渡って長岡屋に迫ります。
香川は交渉のため、先遺隊を長岡屋におくったところ、大久保大和と名乗る代表が出てきました。
もちろん、この時は近藤や土方がいるとは夢にも思わなかったようですが、かつて旧御綾衛士で伏見襲撃組の一人であった加納道之助(又は渡辺九郎衛門ともいう)という隊上が、近藤勇であることを見破ってしまいます。

近藤勇はこの時すでに時勢の流れを見極め、これ以上官軍と戦うことは徳川慶喜公の志にそむき、流山に兵火を上げることは町の人々を苦しめることになると判断し、自ら名乗り出る決意を固めました。

近藤勇が自首したのは、慶応4年4月3日の夕刻と言われています。近藤勇は情の人、逆心の無い人といわれ、これを物語る勝沼のエピソードがあります。近藤勇が官軍とくらべていかにも小勢であったため、民兵の一隊を送ろうとした人に、「相手は先頭に錦の御旗を立てている天朝方の軍であるからその必要はない」と、民間人までも朝敵といわれないように心遣ったと言います。

やがて、幕末史に大きな波乱を残した近藤勇は板橋に護送されることになりました。近藤勇の処遇については、官軍の中でも賛否両論であったそうですが、ついに3週間後の4月25日、板橋の露と消えることとなったのです。
時に近藤勇35歳の若さでした。

住所 流山市流山2-108(近藤勇陣屋跡)